「奥の院」は当寺裏山(通称「一本松」:324m)の山頂で、中世の山城跡「篠ノ丸城址」があります。
この地は、眼下に揖保川沿いの街道筋と宍粟南部一帯が一望できる軍事・政治の要衝の地であったことから、南北朝期に赤松円心の子・赤松顕則のよって築かれたと伝えられ、室町期以降は西播磨守護代宇野氏の拠点(広瀬城)となっていました。
天正8年(1580)の秀吉による播磨平定後は、約7年間、黒田官兵衛の居城「山崎の城」(『黒田家譜』に見える)であったと考えられています。
H25年(2013)、宍粟市教育委員会により航空レーザー測量等、精密な測量・調査が初めて行われました。この測量により
[1]城址(郭郡)は南北250m、東西200mの尾根上に配置されている
[2]主郭(本丸)は南北50m。東西40mの規模を有する
[3]主郭周辺に配置された40余りの方形郭を通路が取り囲む構造をとる
[4]北西緩斜面に畝状竪堀(敵兵の横移動を防御する目的)群、北西に続く尾根上に築かれた3重の堀切など北西面に対する防御を固めている
などを特徴とし、西播磨の中世の城郭としては他に類例を見ない規模と構造を備えていたことが判明しました。
(宍粟市教育委員会事務局発行「軍師黒田官兵衛と戦国時代の宍粟」、宍粟市広報から)
黒田官兵衛と「篠ノ丸城」との所縁は下記の動画をご覧ください。(提供:デジタル工房本門)
【当山『奥の院』となった経緯】
昭和12年(1937)、山崎出身木村説二氏の喜捨により「篠の丸公園」が整備されるにあたり、山頂にあたる「一本松」も当時私有地であったものを買収し公園の一部とした。ただ、貴重な史跡であり山頂という環境条件から見て信仰の道場として信仰の力によって維持管理するのが適当であろうと判断され、公園整備の世話をされていた当山総代の前野佐吉氏の計らいにより当山妙勝寺に寄進された。(当山29世)智恬院日照上人と相談の上、能勢妙見様の御分身を勧請し妙見様をお祀りすることになった。尚、建物は木村氏の菩提寺である興国寺(当山北隣)の御堂・前堂を譲り受け、町内有志の喜捨も受け移築された。
平成2年(1990)無住となり、老朽化が激しくなったため庫裏を解体、翌年には御堂も解体され、祀られていた妙見大菩薩を当山妙見堂に合祀した。